98歳,作家・佐藤愛子はどうしてできた?

何も苦しいことがなければ幸福はうまれないのですよ。

幸福を知るには苦労があってこそなんだというのは、

苦労から逃げた人にはわからない真理だと思います。

佐藤愛子「幸福論」~

著書「私の遺言」を読んで、明るく、勢いのある文体、人情味のあるお人柄に惹かれ佐藤愛子さんとはどんな生い立ちなのか、人生を歩んできたのか知りたくなった。

 

作家 佐藤愛子の生涯

現在98歳、1923年(大正12年11月5日~)大阪市にに産まれ西宮育ち、

父、小説家佐藤紅録、母,女優三笠万里子の元に産まれ、異母兄弟にはサトウハチロー,大垣肇がいる

 

・父が50歳の時に産まれた佐藤愛子は、父から溺愛され、幼少の頃は乳母や女中がついている、豊かな環境で育った。
・最初の結婚は20歳の時、父母の選んだ相手とお見合い結婚をする。
戦争が終わって帰ってきた夫はモルヒネ中毒になっていた。その後死亡。
・もう直らぬと思い決めた時、家を出て小説を書くことで生きていくことを決心する。
・その5年後に二度目の結婚をする。
・その十二年後夫の破産の為、借用書に裏書きしたわけでも、保証人になっているわけでもないのに自らの意思で借金を肩代わりすることになった。
・離婚をしないと妻の佐藤愛子に負担をかけることになる、と夫に騙されて離婚する。

・縁もゆかりもない北海道の浦賀に家を建てた。すると、そこはアイヌの人たちの怨念の場でいろんな超常現象が起こった。その怨霊を鎮めるのに三十年かかった。

 

佐藤愛子が父母から受け継いだもの。

、情熱的で闘争的な性格。

佐藤愛子に沁みついた父がよく口にする言葉

カネカネと言う奴にロクな奴はいない」カネに執着するな

正々堂々

、女が結婚という形で男に隷属して生きるという生きかたに懐疑を持ち女優を志した人。現実的で我慢に我慢を重ね、これ以上我慢が出来ないという時になると、力が出てくる人。理性ということ、大局的にものをみることを繰り返し教えた。

 

この両親から受け継いだものを核として、その時々にかけられた、家族や周囲の人からの言葉を「なるほど、そうなんだ」と素直に受け止め、体の奥に沁み込ませていった。そうして、佐藤愛子はつくられていった。

 

エピソード

・末っ子に生まれ、子供時代は引っ込み思案のはずかしがりだった。・

・愛子が小学生の頃、登校拒否状態になっていると、ばあやに
「お嬢ちゃん、なんぼお嬢ちゃんかて、おおきゅうなったらどうしてもせんならんということが、よのなかにはおますのやで
と言われた。

・校長先生が怖いから学校に行かないと言うと
「何を言うてはんねん、豆腐屋のオッサンかて校長先生かて、同じ人間ですがな。何がエライ」と母に言われる。

・一人目の夫がモルヒネ中毒で直る見込みがない。亭主の出来不出来で女一生の幸福度が決まるなんて、こんなバカげたことはない。何か生きる道を開拓しなければ、と思ったが、出来ることはなにもなかった。その時、離婚を勧めていた母が「あんたはお父さんとそっくりだから、会社へ入っても一周間で喧嘩してしてくるだろう。でも、自分ひとりでやる仕事だったらやっていけるんだから、お前は作家になったらどうか」と、愛子が父に出した婚家先の悪口の手紙を文才がある、面白いと言ったのを思い出して、言った。

・二人目の夫が倒産して、借金を肩代わりしたのはどうしてか?

借金取りが、紙きれをこちらへさしつけてグチャグチャ言ってくる。すると、「なんだこの男は。たかがカネのために顔色を変えて、恥ずかしいと思わないか」と言いたくなるんです。でも、そんなことを言う資格はこちらにはないから、情けないやら腹立つやらで「うるせいな。ハンコ押しゃいいんでしょ、ハンコ押しゃ。押しますよ」と言って、裏書の判を押してしまった。
お金を貸した人にとっては私の夫が裏切ったことは確かなのだから、裏切った方が悪い。そう思ってハンコを押しちゃうんですね。

借金取りが来たら逃げなきゃいけない。そういう生活は私にはできないんです。それが「正々堂々」と「自由に生きる」につながる。正々堂々でない自由というのは私には考えられない。
ということだった。
愛子さんの父の言葉「カネカネと言う奴にロクな奴はいない」「正々堂々」が身についているのだ。

・二人目の夫が友人二人の家を抵当に入れてお金を借りていた。会社が潰れると抵当に入れていた二軒の家が担保としてとられてしまう。これを救うために金貸しの親分の所へいくことになった。
それで、親分にかくかくしかじか、と頼んだら、
人間は自分のしたことの責任はじぶんでするものですよ。奥さんが横から出てって他人の尻拭いをすることはない。だからおやめなさい」と言われた。「仰る通りで、それは私には何とも言えません。ただ、あの人たちには子どもがいるんです。小学校に行ってる子どもが。その子どもはどうなるんですか」そう反問した途端、激して,ワーッと大声を出して泣いた。すると、親分はしばらく黙ったのち、「じゃあ、貸しましょう。金利は銀行並みでいいですよ」その時に、私はこの人は本当に立派な人である。と尊敬しました。精神誠意自分でぶつかれば必ず道は拓ける。それを教えてくれたのはこの親分なんです。

・ある日、借金取りの一人がが来た。お金は一万しかなく、明日そのお金は子供に持たせなければならない。と言うと、「お互いつらいですなあ。お金を持って帰らないと奥さんに叱られる。夕方までいさせてください」と言う。私はなんとかするからといって一万円の半分五千円をわたした。
ああこの人も一生懸命生きているなあ、と思うと、しみじみハグをしてお互いば頑張りましょうよ、という気持ちになるんです。

 

私も夫が亡くなるまでは、自分に責任を持たず、何も知らずに生きてきたと思う。出来るかできないかの選択というよりは危機に面しており、やるしかないという気持ちだった。人間は土壇場になると自分の力を出してどうにかするものである。

佐藤愛子さんはいわゆる苦労の多い人生を歩んでこられたが、それを乗り越えてこられたのは、いつも現実を楽天的に受け止めて自分がしなければならないことを黙々とやりつづけてきたから。そして、その都度、人間のおもしろさに目を向けてきたからではないかと思う。
三者が出来事だけをみて、大変と思うより、本人はそんなふうに感じていない。やることがいっぱいあってそんな風に感じる余裕はないのだ。

人間は切羽詰まると力が出てくるもの。その力は何も私だけにあったものじゃない。すべての人間に与えられているのだから、それを出そうと努力すればいいんです。
佐藤愛子さんは言っている。