捉われない心 ~茶道より~

前回の記事に引き続き、「心理学者の茶道発見」を読んで です。

 

撮影 渞 忠之



hana-tsusin60.hatenablog.com

 

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この本で私がもっとも興味をひかれたのは、主観的自由度と他者受容についてです。

この二つを高く維持することができれば、捉われない心、軽やかで自由な心を獲得することが出来るのではないかと思ったからです。

 

主観的自由度

主観的自由とは

自分ひとりの物の見方、感じ方によって、生き方を選べる自由さである。

人生の選択について、自由を感じ満足をしている人は幸福度が高い。

 

ストレスと主観的自由度

心理学の研究結果で、ストレスに対して主観的自由度が高く能動的な受け止め方受け止め方をする人はストレスの悪影響をあまりうけなくてすむ、ということがわかっている。

 

具体的にいうと、有名な実験がある。

「ブーン」という雑音が鳴り響く部屋で計算問題を解いてもらう。片方の集団には、「その雑音を止めるスイッチはあるが、できれば押さないでください」と伝える。もう片方には伝えない。すると、スイッチをのことを伝えた集団はスイッチを押さなかったにもかかわらず、作業効率が高かったという実験結果がでている。

つまり、嫌なこと、困難な課題でも心の持ち方を工夫して主観的自由度を高くすれば乗り越えやすくなる、ということである。

 

季節の習いで獲得する主観的自由度

茶の湯の稽古はい季節ゆえの習いが多い、それを学ぼう、楽しもうという気構えがあれば本来はストレスとなる暑さ、寒さをかえって尊いものに感じる。

そういう気構えが養われれば、普段の生活でも暑さ、寒さに負けにくくなっていくはずである。

気候に対する、主観的自由度を獲得することになるのである。

 

侘びと主観的自由度

侘びとは不足をたんなる不足と捉えずに、創作の好機と主体的に捉え楽しむ心境である。

侘びの美意識

対照的でひたすら端正な天目や青磁壺を美しいととらえることと非対称でくすんだ和物(わもの)を美しいと捉えることを区別して「侘び」というが、それは「一目みればそこに宿っている美」の意識から「見て、心で切り取り、主体的に見つけなければ見つからない美」の意識である。

いにしえの茶人たちは、茶の湯の技を磨くことで、自分自身の主観的自由度を高く維持する心をみがいていたのではないだろうか。

 

撮影 渞 忠之

 

自己受容と他者受容

自己受容

ありのままの自分の姿を見つめ、ありのままの自分の姿を欠点も含めて受け入れることが自己受容である。

自己受容は訓練で高めることができる。

何か具体的な領域で、本気で努力し、本気で傷つくという経験が必要である。その経験により自己受容を体得することが出来きる。すると、次第に全般的に自己受容のコツがつかめるようになるのである。

その場を提供しているのが茶の湯である。

 

茶の湯と自己受容

茶の湯の稽古は誤りのない点前、粗相のない茶事を目指す訓練である。けれども、点前ひとつ完璧にできることはまれである。客の心の状態を図り、客の心かから離れすぎず囚われすぎず、、主客の心にぴったりとなじむ点前を運ぶのは、容易なことではない。不首尾があったときに、それを正視し自己受容をするのも茶の湯が与えてくれた貴重な訓練ではないだろうか。

自己受容のコツは、不首尾欠点を自分でよく味わう心境になることである。

完全すぎるものには、不均整の楽しみがない。

自己研鑽と自己受容。茶人は古来このふたつを追い求めてきたのである。

 

他者受容

精神的健康の大きな目安は他者受容である。

精神が健康な人は穏やかな楽観に満ち、他者受容が高い。他者受容は自分自身の精神状態のバロメーターになる。

他者のささいな欠点や間違いに心が煩わされるときは、心が疲労しているときである。

自己受容は他者受容の重要な前提である。

他者受容の高い人と接すると、自分ひとりでいるときよりも、自分のことが素直にわかる。歪みなくありのままに受容された自分の姿をその人の態度に感得するするからである。その雰囲気の中に座るだけで、自分の本心がわかり、自己受容がたかまる。

 

茶室は他者受容の場

茶の湯では、茶事で好ましく話題を「我仏、隣の宝、むこ舅、天下の戦、人の良し悪し」と教えている。それは、このような話題が他者受容を損なうからではないだろうか。

一方、「花鳥風月や道具についての話」を清談という。これらの話題は、人間の清い面を引き出し、他者受容を損なわずに時間を共有させてくれる。

茶室では、亭主は花鳥風月の力を借り、取り合わせと点前をつうじて、客に対する自分の態度を表現している。

うまくいった茶事の後味がかけがえもなく軽やかなのは、道具と点前を媒介にして、双方の他者受容、自己受容が自然にひきだされていったからである。

茶事が終わって振り返ると、不思議なほど自分の他者受容が高められていたと自覚することがある。茶室では自分の容量が普段よりゆたかになりえることを知る。これが茶の湯の徳の一つであろう。

 

撮影 渞 忠之

 

いかがでしたか。

茶の湯は知的な遊びをとおして精神を健やかにする場を提供していますが、茶道の精神は私たち日本人には、比較的容易に理解できることなのではないでしょうか。
日常の生活でも、様々な場面において気付きを得、主観的自由度、自己受容と他者受容を高めることで、心の自由を獲得していけるのではないかと思いました。

 

和敬清寂(わけいせいじゃく)

最後に、利休茶の湯の精神をあらわす言葉をご紹介します。

「和」 お互い心を開いて親しくなり、なごやかな状態になること。

「敬」 お互いに敬いあい尊び、自らが慎むということ。

「清」 目に見える清らかさではなく、心の中が清らかなこと。

「寂」 いらないものを捨て去り、どんなときにも動じないこと。