茶の湯と癒し

心理学者の茶道発見 岡本浩一 を読んで

 

ーもくじー

〇右脳の駆使

〇投影

〇侘びの思想

 

右脳の駆使

茶の湯の作法に没頭し右脳を駆使することで癒しが起こる。

点前

点前に慣れず、手順を記憶する段階では、手順を言語として処理する必要があるので、かなり左脳を必要とするが、やがて「体が点前を覚えている」という段階に達すると、左脳の関与は低い。また、間合いの判断や所作の微妙な調整は身体運動を司る右脳の関与の高い活動である。

つまり、手前によってに右脳を使いだすと、右脳は競合する対人関係の不快感などの処理を打ち切って、その処理容量を点前の活動に明け渡さなければならなくなる。さらに、手前の所作そのものが「静かな情動(静かで安らかで、幸福な情動)」の経験を含んでいる。そのため、点前の所作に没頭すれば、条件反射的に、普段の手前で経験済みの「静かな情動」が心に生起するのだろう。

亭主の所作を食い入るように見つめる行為、道具の一つ一つ、その選択と取り合わせに込められた亭主の心映え、お茶の味と香りなど、右脳を駆使する心的活動により癒しはおこる。

茶の湯

亭主が点前という行為をとおして自分自身の心を鎮静させ、客が点前を五官で味わうという行為をとおし、心の鎮静を経験する茶席を媒介した鎮静の共有が、言葉で伝わらぬ心境の豊潤コミュニケーションになっているのである。

 

投影と癒し

心理学では、深い投影を経験すると、心理的な癒しが得られることがわかっている。

投影とは自分の心が外の事物に映って感じられる現象である。

対人関係における投影では、憎んではいけない人を自分が憎んでいて、しかもその憎しみを自認せず抑圧していると、「憎しみ」という感情を相手に投影するという現象が起こる。その結果、自分が相手を憎んでいるのではなく、相手が自分を憎んでいるだという感じるようになるのである。

道具と投影

茶道具には地味であいまいな色合いやデザインのものが多い。

黒楽茶碗 銘 力足 長次郎造  撮影 渞 忠之

 

一方西洋の紅茶茶碗。材質は固く、高貴なつやをたたえ、意匠は、花の模様など具用的であったり、明るかったりする。

イギリスのティータイムは、紅茶を飲むことより、むしろ紅茶を契機にして集まり、社交的な会話を楽しむことが主だから、あのような明瞭なデザインがふさわしいのである。

少人数が言葉少なに集う茶の湯では、あの明るさは使い切れない。それは、茶の湯が歴史をつううじて心を映す場であった事情を語っている。

茶の湯は武士や,治世家、豪商など、孤独と共棲(きょうせい)する人たちによっても愛されてきた。うかつに人に悩みを打ち明けられず、孤独な決断を続けなければならなかった彼らに茶の湯が与えたのは、無言の慰めだったのにちがいない。

心を映す器でるためには、適度の「あいまいさ」が必要なのである。

所作と投影

鍛錬された所作を見ると客は自分の心をそこにみることになる。祝いの茶で祝意を、見舞いの茶で慰めを、朋友の茶で信頼をありありと感じるのも投影の機能である。

また、茶の味がさまざまに感じられるのは客の心の投影の影響を受けるぶぶんもある。

 

侘びの思想

人の世の儚(はか)なさ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念にちかい。日本文化の中心思想であるといわれている。

茶の湯の概念性

露地は世事の日常から正常な心境への移行を象徴し、茶花は一輪で自然の恵みを象徴する。掛け軸は、文字の意味に加えて筆遣いで書き手の心境を、それを見る者の心境に移す。

点前の所作は、亭主がその席にそなえて練り上げたその日その客へのもてなしの心境を映す。客は、所作を見て亭主の心境を概念として理解し、それに感応するのである。その感応が客の所作を生む。その両者を一服の茶が媒介する。

 

概念とは

心理学で概念とは本質的特徴により区別された事物の類,また類別する思考様式。

または多様な経験をなんらかの基準により抽象化して類別する思考様式をいう。

 

音楽は概念で聴く

 音楽を例にあげてみると、

人間は、もともと音やメロディーやリズムについて概念をもっている。作曲をする人や演奏ををする人の脳裏には、恋や歓喜や哀愁の曲想ががあり、それが内なるメロディーやリズムを生む。演奏はそれが外在化したものである。演奏を聴いて人はその演奏を刺激として内なるメロディーやリズムをめいめい自分の脳裏にに描き、曲想を演奏者と分かち合っている。

逆に、概念を結ばせる機能さえ果たせば、現実の刺激でなくてもよい。そういう感覚は日本文化はことに顕著である。「概念で聴く」というのはそういう内なる音を聴いているという意味である。

 

概念を重視する日本文化

見る、聴く、嗅ぐ、触る、味わう、という五官の認識は。結局概念をつうじて成立するのである。五官より高次な、意味の認知や対人認知ももちろんそうである。

能、禅庭、茶の湯など

 

清めの所作

帛紗(ふくさ)で棗(なつめ)や茶杓(ちゃしゃく)を清めるといっても、もともと清められている。清める所作は。清かれと思う亭主の心境と清いと見る客の心境をとり結んでいるのである。帛紗(ふくさ)捌(さば)きにそれに相応しい間合いが要請されるのは、亭主の動きが見る側の客に、清浄概念を喚起するものだからである。

 

清めの所作 帛紗捌き(ふくささばき)

 撮影 渞 忠之

清めの所作 棗(なつめ)と帛紗(ふくさ)

 撮影 渞 忠之

 

棗と茶杓

 撮影 渞 忠之

茶道の精神性 わび茶

村田珠光 
わび茶の開祖、室町中期の茶人
高価な茶器ばかりをありがたがる風潮をきらい、不完全だからこそ生まれる美しさを尊んだ。

茶道の精神性の高まりの結果、物理的制約を離れた心理的概念として共有される。「人間の認知は、結局概念によって成立するもの」という認識感は禅宗仏教の唯識論的感覚に伴っている。

唯識とは

一切の対象は心の本体である識によって現し出されたものであり、識以外に実在するものはないということ。また、この識も誤った分別をするものにすぎず、それ自体存在しえないことをも含む。法相(ほっそう)宗の根本教義。

侘びという思想は、現実に囚われすぎる心を一度概念の世界に遊ばせ、現実と概念の差異をむしろ知的に楽しもうという姿勢であったようにおもわれる。
侘びという思想は現実を受け入れる姿勢である。

その侘びの思想を体現した茶道は、私たちの懊悩の多くが概念の誤写であることをむりなく実感させてくれるシステムである。現実受容をはかり、心の癒しをはかるツールとして今日まで機能してきたのである。

 

感想

私がお茶のお稽古で面倒くさい、非合理的と感じた所作には、亭主の所作が客の概念を喚起し心の鎮静を促すものあることがわかった。たとえば、清めの所作は、実際に清められているのではなく、見る側の客に清められているという概念を呼び起こしているものだということ。

小説の中のお茶の先生が仰った、茶の湯は「時間をいただいている」という素敵な言葉は、亭主が鍛錬した時間、茶席を準備した時間、客を楽しませようと心を尽くした時間、そして客が、亭主の心映えとゆったりとした所作をとおして、自分の概念をよびおこし、またある時は自分が経験により得た概念の誤りを認識する時間をいただくという意味ではないかと思った。

茶の湯は、亭主と客がともに心を鎮静させ、深い心のコミュニケーションの場なのであろう。

お互いこのコミュニケーションがうまくいくと、それこそ深い癒しが生まれるのだろう。

 

 撮影 渞 忠之