茶の湯と癒し

心理学者の茶道発見 岡本浩一 を読んで

 

ーもくじー

〇右脳の駆使

〇投影

〇侘びの思想

 

右脳の駆使

茶の湯の作法に没頭し右脳を駆使することで癒しが起こる。

点前

点前に慣れず、手順を記憶する段階では、手順を言語として処理する必要があるので、かなり左脳を必要とするが、やがて「体が点前を覚えている」という段階に達すると、左脳の関与は低い。また、間合いの判断や所作の微妙な調整は身体運動を司る右脳の関与の高い活動である。

つまり、手前によってに右脳を使いだすと、右脳は競合する対人関係の不快感などの処理を打ち切って、その処理容量を点前の活動に明け渡さなければならなくなる。さらに、手前の所作そのものが「静かな情動(静かで安らかで、幸福な情動)」の経験を含んでいる。そのため、点前の所作に没頭すれば、条件反射的に、普段の手前で経験済みの「静かな情動」が心に生起するのだろう。

亭主の所作を食い入るように見つめる行為、道具の一つ一つ、その選択と取り合わせに込められた亭主の心映え、お茶の味と香りなど、右脳を駆使する心的活動により癒しはおこる。

茶の湯

亭主が点前という行為をとおして自分自身の心を鎮静させ、客が点前を五官で味わうという行為をとおし、心の鎮静を経験する茶席を媒介した鎮静の共有が、言葉で伝わらぬ心境の豊潤コミュニケーションになっているのである。

 

投影と癒し

心理学では、深い投影を経験すると、心理的な癒しが得られることがわかっている。

投影とは自分の心が外の事物に映って感じられる現象である。

対人関係における投影では、憎んではいけない人を自分が憎んでいて、しかもその憎しみを自認せず抑圧していると、「憎しみ」という感情を相手に投影するという現象が起こる。その結果、自分が相手を憎んでいるのではなく、相手が自分を憎んでいるだという感じるようになるのである。

道具と投影

茶道具には地味であいまいな色合いやデザインのものが多い。

黒楽茶碗 銘 力足 長次郎造  撮影 渞 忠之

 

一方西洋の紅茶茶碗。材質は固く、高貴なつやをたたえ、意匠は、花の模様など具用的であったり、明るかったりする。

イギリスのティータイムは、紅茶を飲むことより、むしろ紅茶を契機にして集まり、社交的な会話を楽しむことが主だから、あのような明瞭なデザインがふさわしいのである。

少人数が言葉少なに集う茶の湯では、あの明るさは使い切れない。それは、茶の湯が歴史をつううじて心を映す場であった事情を語っている。

茶の湯は武士や,治世家、豪商など、孤独と共棲(きょうせい)する人たちによっても愛されてきた。うかつに人に悩みを打ち明けられず、孤独な決断を続けなければならなかった彼らに茶の湯が与えたのは、無言の慰めだったのにちがいない。

心を映す器でるためには、適度の「あいまいさ」が必要なのである。

所作と投影

鍛錬された所作を見ると客は自分の心をそこにみることになる。祝いの茶で祝意を、見舞いの茶で慰めを、朋友の茶で信頼をありありと感じるのも投影の機能である。

また、茶の味がさまざまに感じられるのは客の心の投影の影響を受けるぶぶんもある。

 

侘びの思想

人の世の儚(はか)なさ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念にちかい。日本文化の中心思想であるといわれている。

茶の湯の概念性

露地は世事の日常から正常な心境への移行を象徴し、茶花は一輪で自然の恵みを象徴する。掛け軸は、文字の意味に加えて筆遣いで書き手の心境を、それを見る者の心境に移す。

点前の所作は、亭主がその席にそなえて練り上げたその日その客へのもてなしの心境を映す。客は、所作を見て亭主の心境を概念として理解し、それに感応するのである。その感応が客の所作を生む。その両者を一服の茶が媒介する。

 

概念とは

心理学で概念とは本質的特徴により区別された事物の類,また類別する思考様式。

または多様な経験をなんらかの基準により抽象化して類別する思考様式をいう。

 

音楽は概念で聴く

 音楽を例にあげてみると、

人間は、もともと音やメロディーやリズムについて概念をもっている。作曲をする人や演奏ををする人の脳裏には、恋や歓喜や哀愁の曲想ががあり、それが内なるメロディーやリズムを生む。演奏はそれが外在化したものである。演奏を聴いて人はその演奏を刺激として内なるメロディーやリズムをめいめい自分の脳裏にに描き、曲想を演奏者と分かち合っている。

逆に、概念を結ばせる機能さえ果たせば、現実の刺激でなくてもよい。そういう感覚は日本文化はことに顕著である。「概念で聴く」というのはそういう内なる音を聴いているという意味である。

 

概念を重視する日本文化

見る、聴く、嗅ぐ、触る、味わう、という五官の認識は。結局概念をつうじて成立するのである。五官より高次な、意味の認知や対人認知ももちろんそうである。

能、禅庭、茶の湯など

 

清めの所作

帛紗(ふくさ)で棗(なつめ)や茶杓(ちゃしゃく)を清めるといっても、もともと清められている。清める所作は。清かれと思う亭主の心境と清いと見る客の心境をとり結んでいるのである。帛紗(ふくさ)捌(さば)きにそれに相応しい間合いが要請されるのは、亭主の動きが見る側の客に、清浄概念を喚起するものだからである。

 

清めの所作 帛紗捌き(ふくささばき)

 撮影 渞 忠之

清めの所作 棗(なつめ)と帛紗(ふくさ)

 撮影 渞 忠之

 

棗と茶杓

 撮影 渞 忠之

茶道の精神性 わび茶

村田珠光 
わび茶の開祖、室町中期の茶人
高価な茶器ばかりをありがたがる風潮をきらい、不完全だからこそ生まれる美しさを尊んだ。

茶道の精神性の高まりの結果、物理的制約を離れた心理的概念として共有される。「人間の認知は、結局概念によって成立するもの」という認識感は禅宗仏教の唯識論的感覚に伴っている。

唯識とは

一切の対象は心の本体である識によって現し出されたものであり、識以外に実在するものはないということ。また、この識も誤った分別をするものにすぎず、それ自体存在しえないことをも含む。法相(ほっそう)宗の根本教義。

侘びという思想は、現実に囚われすぎる心を一度概念の世界に遊ばせ、現実と概念の差異をむしろ知的に楽しもうという姿勢であったようにおもわれる。
侘びという思想は現実を受け入れる姿勢である。

その侘びの思想を体現した茶道は、私たちの懊悩の多くが概念の誤写であることをむりなく実感させてくれるシステムである。現実受容をはかり、心の癒しをはかるツールとして今日まで機能してきたのである。

 

感想

私がお茶のお稽古で面倒くさい、非合理的と感じた所作には、亭主の所作が客の概念を喚起し心の鎮静を促すものあることがわかった。たとえば、清めの所作は、実際に清められているのではなく、見る側の客に清められているという概念を呼び起こしているものだということ。

小説の中のお茶の先生が仰った、茶の湯は「時間をいただいている」という素敵な言葉は、亭主が鍛錬した時間、茶席を準備した時間、客を楽しませようと心を尽くした時間、そして客が、亭主の心映えとゆったりとした所作をとおして、自分の概念をよびおこし、またある時は自分が経験により得た概念の誤りを認識する時間をいただくという意味ではないかと思った。

茶の湯は、亭主と客がともに心を鎮静させ、深い心のコミュニケーションの場なのであろう。

お互いこのコミュニケーションがうまくいくと、それこそ深い癒しが生まれるのだろう。

 

 撮影 渞 忠之

茶道発見

 

      撮影 渞 忠之

                        

わたしは、義理の母が長年お茶をたしなんでおり、夫と結婚が決まった時に義理の母にお茶をやってくださいと言われたので、当初数年お稽古に通いました。そして夫の実家にいくと、いつも義理の母からお稽古をうけさせられました。

お稽古はたくさんの決まりごとがあり、何をするにも堅苦しくずっと緊張していなければなりませんでした。

はっきりいえば、めんどうくさいのです。

ですが、抹茶の色、趣あるお道具、楚々とした茶花、湯を沸かす窯から立ち上る湯気、お香の香り等は魅惑的でもありました。

学生時代からお茶のお稽古に通っている友人がおりましたが、その方は、「私はお茶ではなくて、茶道をやりたいの」と言っていました。わたしは、口にはだしませんでしたが、ちんぷんかんぷんで「なにを言っているの?意味がわかなない」という感じでした。

 

現在は、すっかりお茶から遠ざかっておりますが、、、
先日、恩田陸さんの著書「なんとかしなくちゃ。星雲編」を読みました。
主人公を含むきょうだい3人は小学生のころからお茶を習うことになっています。
習いたてのある日、主人公はお茶の先生に、なぜ一度に道具を運ばないのか?とたずねます。よくぞ言ったと私は思いました。
お茶の作法は細かく決まっており、それを間違えずに行うには、何年もかかります。なぜ、こんなことをするのか?合理的じゃないと思うのは誰もが感じるのではないでしょうか。わたしもそう感じていました。
すると先生は微笑んで「お茶は時間を一緒にいただいているからです」とこたえるのです。わたしはそんな先生の言葉に感動しました。
兄弟3人は成人したときには自分が亭主となり、父母、祖父母を招いてお茶会を催さなければならないことになっていました。それぞれ3人のお茶会は道具を媒介として亭主の表現の場でもありました。個性が十分に発揮されていて、とても面白いと思いました。

そして茶道とはどんな意味があるのか深くしりたくなりました。

 

       薄茶          日本の美 茶の美より

 

茶道の基礎知識

「茶道」とは、簡単に云えば日本の伝統的な様式に則り、亭主が客人にお茶を点(た)て振舞い、客人は亭主のおもてなしを受け、お茶をいただくことを言い、「茶の湯」とも言われます。

 

作法

しかし、「茶道」では、お茶の点(た)て方(点前)、いただき方、座り方、礼(お辞儀)の仕方、立ち方、歩き方の動作にも色々な決まりがあるのです。これを作法といいます。

これが大変で、間違えずに一連の流れを滞りなく行うには私には至難の技で、精神的なことには及ばないのです。

 

お点前(てまえ)

亭主(茶事の際、会を催すための中心になる人)がお客の前でお茶を点(た)てる、この作法全般をお点前といいます。

 

わび・さび

「侘び」とは、飾りやおごりのない、ひっそりとした枯れた味わいのこと。

「寂び」は、古びて趣のあること

つまり、「わび・さび」とは、粗末で寂しい様子や古びたり色褪せたりしたものをネガティブに捉えずに、そのふうあいやたたずまいに美しさを見出す繊細な感性。

この「わび、さび」の精神を大切にし、茶室という静かな空間でお茶を点てることに集中することで、心を落ち着かせます。そのことによって自分自身を見直し、精神を高めていくという精神文化も確立されていきました。

「茶道」は単にお茶を客人に振舞い、お茶をいただくだけではなく、亭主と客人との精神的な交流を重んじる精神性や思考、そのための茶室や庭、茶室のしつらえ、茶道具の選別や鑑賞、振舞われる料理や手前作法など茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされます。

また、客人をもてなす茶道の精神は、現代の日本人のおもてなしの精神にも通じています。
おもてなしの心に触れながら、お茶を楽しむことが、茶道では大切です。

以上で、茶道における概念の説明を終わりにしたいと思います。

次回は、心理学の観点から茶道とはなにかをさぐっていきます。

 

   干菓子      日本の美 茶の美より

 

 

余談になりますが、みなさん抹茶アイスはおすきでしょうか。
なかなか美味しい抹茶アイスにめぐりあいませんよね。
お手軽⁉でもありませんが、明治のスーパーカップバニラに抹茶を混ぜると
自分で好みの濃さにもでき、とてもおいしいです。

おためしあれー。

 

目に見えない子ニンニ ムーミンより

ムーミン谷の仲間たち」収録の「目に見えない子」の挿絵 (1963年)

 

ちょっと遠出して、新鮮な野菜を買いに行った帰り、ショッピングセンターに入るとムーミンの雑貨が陳列されているお店を発見しました。店頭に並んでいるのは色が奇麗でかわいいムーミンに登場するキャラクターが描かれた数々のカップ

私が気に入ったのは、薄いピンクの地でかわいいワンピースとヘアアクセサリーをつけた女の子が描かれているカップ。でも、顔がないのです。

手に取ると、早速店員さんが説明してくれたました。
その子はニンニ、一緒に住んでいるおばさんにいつも皮肉を言われて、そのために姿がみえなくなってしまいました。

ムーミンママはそんなニンニに洋服とアクセサリーをつくってあげました。
それがこのカップの絵だそうです。

ちょうど、友達の誕生日がせまっていたので、これをプレゼントしようと購入しました。

その後動画をみてみました。

www.youtube.com

 


www.youtube.com

実は子供の時にはあまり好きではなかったムーミンのアニメですが、あらためて観てみると、とても色彩豊かでまたこのお話は、ムーミン谷のひとたち、特にムーミンママがとても優しくて心あたたまりました。

ニンニは最初ムーミン屋敷に来たときは、チリンチリンというはかない鈴の音だけが二ンニの存在をあらわしていました。

でも、ニンニはムーミン屋敷に滞在してあたたかいおもいやりのあるひとたちに囲まれ、徐々に自信を取り戻し姿が見えるようになっていきます。

ムーミンママがニンニのために、夜なべをしてワンピースを作っているシーン、そして「久しぶりに女の子の洋服を作って楽しかったわ」と言うムーミンママ

ニンニのかくれんぼをしていた時に、発する声「わたしは、ここよ!ここにいのるよ!」を聞いたときはジーンときてしまいました。

 

 

作者のトーベ・ヤンソンが愛したのは

「自然」「クリエイティビティ」「多様性」そして「自由」です。

自然と調和する町

前回に引き続きお墓参りの途中で立ち寄った、花巻・盛岡の写真をご覧ください

・花巻:宮沢賢治記念館・イーハトーヴ館

・盛岡:啄木、賢治青春館・町家物語館

 

9月21日(木) ぽつぽつ小雨が降っていました。



宮沢賢治記念館に到着

 

 

 

 

 


宮沢賢治は自分の作品を、創作したものではなく現実の世界の現象を見て、働かされた心を記したもの、つまり心の現象をスケッチしたものととらえています。

 

 

宮沢賢治記念館から出ると、土砂降りの雨が降っていました。

記念館の下方には気持ちの良い樹々が生い茂った小道を通り抜けるとポランの広場があったはずですが、諦めて偶然にもこの日は音楽会が開催されるというので車でイーハトーヴ館に行きました。

 

曲目はこちら、

 

こんな平日に、音楽会が行われるなんてラッキー、と思っていたら9月21日は賢治の
命日だったのです。

バイオリン、ヴィオラ、チェロの音に酔いしれて素敵な時間を過ごしました。

 

イーハトーヴ館では漫画家ますむらひろし展も開催されていました。

銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展

 

当日、写真は撮らなかったので、家にある本をご紹介します。

20年ほど前こちらを訪れた時に娘が選んで購入した本です。

 

アタゴオル 「力」ではたどり着くことのでない世界

ファンタジーにあふれた素敵な世界です。
宮沢賢治が好きな方はきっとお気に召すはず!

 

イーハトーヴ館から見える景色は緑ゆたかな見晴らしの良い斜面、
以前訪れた時に家族4人でその風景を眺めながら斜面上部の狭い所、横一列に並んでお弁当を食べました。
その場所がどこだったのか覚えてなかったのですが今回判明しました。

写真におさめてはいませんが、訪れた際にはぜひご覧ください。

 

イーハトーヴ館をあとにし、コンビニの駐車場から遠くを眺めると、山々がぼわーんと白くけぶっていて、きれい!かえってこんな日でよかったねと娘と言い合いました。

 

翌日朝、盛岡のホテルの駐車場で

 

 

まずはじめに前回記事にした南昌荘に行った後こちらを訪問しました。

 

hana-tsusin60.hatenablog.com

 

 

 

1910(明治43)年に完成した旧第九十銀行を保存活用した観光文化施設です。

 

カフェのメニューもレトロな感じが出ていてすてきです。

 



最後に、もりおか町家物語館

町家造りの景観が広がる北上川沿いの舵屋超は、船運の要所として栄えたエリア。

平成18年まで酒造りが行われていた「旧岩手川舵屋工場」の酒蔵を改修し、『もりおか町家物語館』としてオープンしました。

大正時代に建てられた酒蔵「時空(とき)の商店街」では。盛岡の特産品や工芸品の販売、ジェラート、喫茶店があります。

お土産に買ったスパークリングの日本酒が好評でした。

 

明治期に建てられた母屋の「常居」は、大きな神棚がある主人の仕事場。
圧巻の吹き抜けは、主を足蹴にしないという意味で二階を載せないのだそうです。

 

 

文庫蔵2階、

絵本の読み聞かせなどもおこなわれているそうです。

 

 

 

 


盛岡は、数年前に郊外にイオンをはじめ大きなショッピング街が形成され、人の流れは一変しました。そのため盛岡駅付近はすたれた感がありましたが、今回あらためて、盛岡の魅力を発見できました。

町の中に川が流れ、自然と調和した城下町、盛岡にまた立ち寄ってみたいと思いました。

南昌荘

古き良きものを愛でる

南昌荘は、盛岡出身の実業家、瀬川安五郎余りの18年頃に邸宅として建て、築庭も数年かけて完成し、盛岡の数少ない明治の邸宅・名園として今日に残っています。

明治・大正・昭和・平成・令和と、130年あまりの間に所有者が次々変わる中で、ときどきの社会変化を反映し、今日の姿に継承されています。現在はいわて協同組合に引き継がれています。             ーパンフレットよりー

 

秋の彼岸、お墓参りに行く途中、久しぶりに盛岡に立ち寄り美しい建造物を観賞しました。今回は第一弾、南昌荘です。ご覧ください。

 

 



玄関から入り受付をしてすぐ右手

壮観!目の前にまばゆい景色がひろがります。

 

中2階 南昌の間 30畳

 

 

 

南昌の間 西窓側

 

 

南昌の間から見た庭園の池

 

南昌の間から見た 書院 水月の間

 

 

盛岡にゆかりのある宮沢賢治のステンドグラス

 

 

 

 

 

 

 

松鶴の間から撮影

 

 

 

ぽつぽつ雨が降っていましたが

水月の間より庭にでてみました

 

 

 

 

 



 

 

庭を歩いていると小さな子どもたちのかわいらしい声が聞こえてきました。

お隣は、保育園のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

急に日が差して明るくなりました。

 

 

 

 

 

 



 

南昌荘は映画「3月のライオン」のロケ地になっています。

 

蓮の花より思いを馳せて

 

お姫さま くもに会う

 

むかしむかし山奥の池に大きな大きな蓮の花が一輪さいていました。

その池のほとりに、小さな古い社(やしろ)がたっていました。、そこには大きなクモが住んでいました。

このクモは、はえとり丸という名の妖怪でした。といっても何かとくべつな力があるわけでもなく、ただむげんに糸を繰り出すi糸巻きをもっているだけでした。

むかし、人に姿を見られ、ひどくおどろかせてしまったので、それから社の中にとじこもって、布を折ったり、裁縫をしたりして、ひっそりとくらしていました。

 

 

ただでさえ人にきらわれるクモが、こんなに大きな体だから、こわがれてしまうんだ。できることならば、小さくなりたい、と、はえとり丸は思っていました。

「百年に一度だけさく、おばけハスの花のつゆをのめば、小さくなることができる」。池の主のガマガエルに、そう教えられてからは、はえとり丸は、ずっとその日を待ち続けてきたのです。

それが今日でした。

 

そんな日に、虫が好きなおひめさまと仲良しの男の子5人が虫を追いかけて遊んでいるうちに、こんな山奥の池までやってきてしまいました。

気が付くと目の前に池がありました。水辺には、大きな大きな蓮の花がさいていて、おかしのようなあまいかおりがしました。

はなのしんには、あふれんばかりにつゆがたまっています。

のどがからからだった6人は、つぎつぎに、つゆをてのひらにすくいとると、ごくごくのみました。

そのときです。

「そのつゆをのんじゃだめだ」と声がして、人の大きさほどもある、毛むくじゃらのクモがとびだしてきました。

姫ぎみたちはぎゃーっとさけんで、にげだしました。

しかしつぎのしゅんかん、体が宙に浮かび上がったかと思うと。そのまま。きえいるようにちいさくなって、風にとばされてしまったのです。

大きなクモ(はえとり丸)は、その場にたちつくして、「何てことだ」とつぶやきました。

 

お姫さまと男の子たちは、つゆをのんで小さくなってかぜにとばされてしまいました。

はえとり丸は、「あのままでは、虫やクモに食べられてしまう」たすけに行かなくてはとおもいます。

そして、こどもたちを怖がらせないために、社に戻り、こんな美しいチョウになりたい、というおもいでつくった、一番のお気に入りの着物をきて、おばけハスつゆをぐっとのみました。

 

はえとり丸は自分はチョウの精と言って、つぎつぎと子どもたちをたすけだします。

そのあいまに,クモの種類や生態を子どもたちにおしえてあげました。


子どもたち全員を無事にたすけだすと

こんどは、洞窟に住む大きなガマガエルにもとの大きさに戻る方法をたずねにいきました。

ガマガエルは、「ひとつだけ、みちはある。おばけハスの根、すなわちレンコンのあなを通るんじゃ。ただし、恐ろしく体力をうばわれる、きけんな方法じゃ」とガマガエルはいいました。

 

はえとり丸は水グモの巣の原理をつかって、水底にもぐり,レンコンの穴に順番に6人をおしこみまた。

それから岸に上がって、みんなが出てくるのをまちました。

 

大きなハスの葉の上に、姫ぎみたちひとりずつすがたをあらわしましたが、みんなつかれはてて、ぐったりと目をとじたままです。そして6人の重みで、ハスの葉がしずみはじめました。

 

この様子を見ていたはえとり丸は、いそいで水底へおりていき穴を通るのにじゃまなチョウのきものをぬぎすてて、レンコンの穴の中へはいっていきました。

 

やがて、ハスの葉の上に、はえとり丸がよろよろと大きな姿をあらわしました。たおれそうになるのをこらえながら、ハスの花によじのぼると,葉に糸まきの糸をなげかけ、花にむすびつけて、しずまないようにしました。その時、村人がやってきて、はえとり丸を見ると、「うわーっ」と大きな声でさけびました。はえとり丸は、はっとしたひょうしに池にどぶんとおちました。そして、そのまま、ゆっくりとしずんでいきました。

 

 

 


蓮の花をみたり、クモに出会うと、はえとり丸を思い出します。

この絵本は娘が幼いころに読んであげたものです。

今でも、わたしも娘も大好きな絵本です。

娘は、このお姫さまのように虫好きで、幼稚園の頃はよく牛乳パックに入れたたくさんのダンゴムシをもちかえってきました。

わたしは「うわー、また!」と苦笑い。

 

わたしは、虫好きではありませんが、この絵本を見てから、クモを見ると親しみがわき、そしていとおしく感じます。

 

 

クモは秋の良く晴れた日におしりからだした糸を風に流して、いっせいに空へとびたっていく、とはえとり丸が言っていました。それをみんなで見に行こうとやくそくし、はえとり丸はうれしそうにうなずいたのでした。

 

 

それからしばたくたった良く晴れた秋の日、姫ぎみたちはあのハスの池にでかけました。

たくさんのクモがとびたっていくのをみました。

姫ぎみたちは、大声ではえとり丸の名をよびました。

 

姫ぎみたちは、おばけハスの実の上で、糸を風に流している、一匹の小さなクモに気がつきました

「あなた、もしかして、はえとり丸しゃない?」

そのクモは、しばらくこちらをじっと見ているふうでしたが、やがて、ぱっとハスの実から足をはなすと、空へ

すいこまれるように、とびたっていきました。

 

 

 

「お姫さまくもに会う」は

福音館の月刊誌 たくさんのふしぎ 1999年10月号(第175号) に掲載されました。

今は絶版になっています。



 

かんじんなことは、目に見えない ~星の王子さま~



星の王子さまは、とても小さな星に住んでいました。そこに咲いたきれいな花(バラ)といざこざがあり、ある日旅に出ることにしました。

7番目にたどり着いたのが地球

そしてきつねと出会います。きつねは言います。

「おれ、毎日同じことをして暮らしているよ。~おれは少々たいくつしているよ。だけど、もしあんたが、おれと仲良くしてくれたら、おれはお日さまに当たったよう気持ちになって、暮らしていけるんだ。足音だって、きょうまできいてきたのとは、ちがったのがきけるんだ。ほかの足音がすると、おれは、穴の中にすっこんでしまう。でもあんたの足音がすると、おれは、音楽でも聞いている気持になって、穴の外へはいだすだろうね。それから、あれ、見なさい。あの向こうに見える麦ばたけはどうだね。~あんたの金色の髪はうつくしいなあ。あんたがおれと仲よくしてくれたら、おれにゃ、そいつが、すばらしいものにみえるだろう。金色の麦をみると、あんたを思い出すだろうだろうな。それに、麦を吹く風の音も、おれにゃうれしいだろうな、、、」

 

王子さまはこんなはなしをしあっているうちにきつねと 仲良しになりました。

 

―王子様がさよならをいいに、きつねのところにもどってくると、約束どおり、秘密をおしえてくれました。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」

「あんたが、あんたのバラの花をたいせつに思っているのは、そのバラの花のために、ひまつぶしをしたからだよ」

 

わたしは10年ほど前に仲良しだった将太くんを思い出しました。

肌の色が透けるように白く、ガラス玉のようにきらきら光る目をした男の子、とても人懐っこい性格です。

部屋にお客さんが来ると「○○好き?」とたずねます。これが将ちゃんのコミュニケーションの方法なのです。将ちゃんにとっては挨拶みたいなもの。

将ちゃんは、自閉症という障害を持っています。一般的な会話は成り立ちません。

将ちゃんはかわいいのですがときにはひどいいたずらをします。物を壊したりトイレに洗剤をつっこんだり、問題児でもあります。

ある日みんなで遠出をして産直館に行ったとき、将ちゃんが好きなお酒の瓶が並んでいるコーナーがあり、いつものようにそこから動かなくなってしまいました。たまに、手に取ったりするので、落とさないように見守っている必要があります。

将ちゃんは、しばらくお酒が並ぶ棚をながめていましたが、

「よいしょ!」と木槌のようなものを振り下ろし、「とくとくとくとく」とお酒を器に注ぎ、わたしに渡してくれました。

よく見るとお酒が並ぶ棚の上のほうに酒たるの飾り物がありました。

それから、何回もふたりで鏡開き遊びをしました。

「よいしょー!」

「ぱっかーん!」

「とくとくとくとく」

 

お別れの日が来ました。それを将ちゃんが知ると、将ちゃんは作業にはいりました。何枚も紙を濡らして貼り重ねています。一生懸命、集中してやりつづけています。

そして、お別れ会でそれをわたしにプレゼントしてくれました。

ありがとう、将ちゃん!