七夕飾り

私の勤め先の児童館では,、地域でおこなわれる七夕飾りに出展しました。
制作物は商店街に飾られます。



 

 

 

 

ちなみに七夕飾りには次のような意味

があります。

 

短冊

七夕飾りの短冊は赤・黒(紫)・青・白・黄の5色が一般的です。

七夕飾りの短冊が5色なのは、中国の五行説が影響しています。五行説とは、世の中のすべては火・水・木・金・土のいずれかに当てはまり、それぞれが影響し合っているとする自然哲学の考え方です。火が赤、水が黒、木は青、金が白、土が黄色に対応します。

日本では、黒色は縁起が悪いという理由から、高貴な色である紫に変化しました。また、日本語の青は緑色も表す言葉だったため、緑色が含まれるようになったそうです。

 

吹き流し

垂らした織糸を模した飾りです。織姫を象徴し、手芸や機織りの向上を願って飾ります

 

くずかこ

七夕飾りを作り終えた後に出る紙くずを入れる飾りです。ものを粗末にしないで役立てる倹約の気持ちや、清潔さを育てる意味を持ちます

 

投網

投網とは魚を取るための網のことで、大漁を祈願して飾ります。

 

折り鶴

家内安全や長寿を願います。

 

巾着

貯蓄や金運の上昇を願う飾り物です。

 

紙衣

折り紙で作った人形や着物が紙衣です。機織津女が織った着物を模していて、裁縫の上達などを願います。また、病気や災いが起こらないようにという厄除けの意味や、子どもの健やかな成長を願い身代わりとして流す形代(かたしろ)の意味合いもあるとされています。

 

 

私が担当したのはくす玉つくり、

魔よけの意味があります。

 

くす玉の花は🌸

ひとつひとつ手でつくって丸い梁にくっつけていかなければなりません。

出展の期日せまっていて私は焦っていました。

私が部屋の片隅で取り組んでいると、一年生の子どもたちが「なにしてんの?」と寄ってきて

いつの間にか

お花紙をカットする人

紙をジャバラ折にする人

ホチキスでとめるひと

紙を開いて、花の形にする人

そのはなの後ろに両面テープを貼付ける人

梁につける方の両面テープをはがす人

 

という一連の工程作業の分担ができていました。

まるで、工場のよう!

子どもたちは、ある程度して、自分が手掛けた作業に飽きると、
「あっちもやってみたい」

すると、「じゃあ、私はこれをやるから」とコミュニケーションをとって、
うまい具合にすすんでいきました。

なかには、「さぼらないで!どんどんすすめるよ!」という子もいました。

初めは、あまり上手にできなくても、みんなすぐにうまくできるようになりました。

おかげさまで、あっという間にかんせい!

ありがとう、みんな ❤️

 

こんなすてきな七夕飾りができました。

 

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銅賞をとりました

 

ねがいごとを書く短冊には

・地球がずっときれいでいますように

・じしん、つなみがおきませんように

と書かれたものもあり

職員一同、感激しました。

宮沢賢治とともに

以前、宮沢賢治の童話を記事にしたことがありますが、

心象風景のすばらしさ、おもしろさに寄せて紹介させていただきました。

 

今回は「八ヶ岳の空から」著 大村紘一郎から賢治の童話の解釈の部分をとりあげてご紹介します。

 

 

私は宮沢賢治のお話は、何が云いたいんだろう、かわいそうすぎるという作品もあり、若い頃は難しくてよくわからないと感じていました。理屈で考えるよりもまずは楽しめれば良いのですが、私のように思考から入ってしまうようなひとは賢治の思いを理解してから作品を読むとすんなり賢治の世界にひたれるのではないでしょうか。

賢治の童話には、この世界に生きるものたち全てに愛が注がれていると感じます。複雑な現代社会に生きる私たちに『本当のしあわせとは何か』をかたりかけてくる賢治の世界にふれるきっかけとなってくれるとうれしいです。

宮沢賢治と保坂嘉内

保坂嘉内は賢治の」無二の親友です。

嘉内は1896年(明治29年)、八ヶ岳を望む山梨県北巨摩(こま)郡駒井村(現韮崎(にらさき)市)に生まれ、1916年賢治のいた盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に入学し、賢治と寮で同室となりました。

そこで、賢治と嘉内は八ヶ岳周辺の風や星のこと、将来の進路、理想の生き方などを語り合ったと思われます。二人とも石川啄木に憧れて詩を愛します。

県下最高峰の岩手山は賢治が生涯愛した山です。賢治は郷土岩手地方の空気や風邪や匂いや光や色彩を創作の原動力として、賢治の心の中のドリームランドとしての岩手県を描いたのです。

 

岩手山

 

ふるさとの

山に向かいて

言うことなし

ふるさとの山は

ありがたきかな

   ー石川啄木

 

しかし、賢治の心は世界全体のしあわせのことや、宇宙の生命のことにも配られていきます。

そして、あるとき、賢治の心は大循環の風を従えて八ヶ岳にやってきたのです。

 

 

嘉内は郷里でハレー彗星を観察した1910年のスケッチを宮沢に見せ、彗星はまるで銀河を横切る夜行列車のようだったと説明したといいます。

 

風の又三郎

どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいくゎりんもふきとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 

ある風の強い日、嘉助の通う谷川の岸の小さな小学校に不思議な少年、三郎が転校してきます。三郎は地元の子どもたちに、風の神の子である『風の又三郎』ではないかと思われます。

 

このおはなしは、賢治が嘉内から聞いた八ヶ岳の強風のはなしから創作したものと思われます。

八ヶ岳には、風の神が住んでいるという信仰が古くからあり、その風の名が風の三郎といいます。

八ヶ岳山麓には「風の三郎社」という神社が大事にされています。

 

どんぐりと山猫

誰が一番偉いのかをどんぐりたちが争う裁判の中で、人間である一郎少年は「そんならかう言いわたしたらいいでせう。このなかで一番ばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないやうなのが、えらいとね」

 

様々な解釈がありますが、他人と比較することの愚かさを賢治が訴えているように思います。

賢治がこの童話で語ろうとする思いの先には、お互いが理解し認め合い、憎まないでもよい敵を殺さないですむような世界があるのです。暴力と報復による「憎しみ」や「悲しみ」の鎖を断ち切る強さと優しさを持ちなさいと、今日の紛争の絶えない世界へ警告しているようなきがするのです。

 

猫の事務所

猫の事務所では、みんなに意地悪をされている窯猫が働いています。
窯猫とは、寒さに弱くて夜かまどの中に入って眠るため、からだが煤で汚れている猫です。いじめに苦しむ中で窯猫はあたりまえの猫になろうと努力しますが、無理なことがわかると「やっぱり僕がわるいんだ。しかたないなあ」とかんがえてしまします。

窯猫はかあいさうです。そして、さいごにはほかの猫たちのことも、みんなあはれ、かあいそうと結んでいます。

窯猫のように、自分では責任の負えないことで仲間外れにされたり、いじめられたりするのです。

また、いじめる側に立たなければ自分が不利になると思わせるような社会の仕組みの中では、差別し、いじめる方もあはれに思えてくるのです。

 

注文の多い料理店 よだかの星

動物たちの殺生を何とも思わない、うわべだけは気取っていてなにもできないおくびょうな都会の紳士がとうじょうします。たわむれに生命を奪おうというするものの愚かさその報いを描いているのです。

 

よだかは自分の醜さによっていじめられます。そのことも悲しいのですが、よだかはさらにもうひとつの悲しみをあじわいます。

鷹に殺されそうになったよだかは、自分が羽虫やかぶと虫を食べて(殺して)いるのに気が付き、つらい思いをするのです。

ほかの生物を食べずにはいられない、その悲しみを感じるからこそ、生命の尊厳に向き合うことができるのだと考えます。

 

人と人とが、そして人と自然とがバランス良く関係しあっていて、ひとり一匹が個として自由にいきていける、多様でありながらもほかの存在を尊重していくという社会を心の中に描いています。

人間中心の開発は地球の持つ自然の摂理を犯す行為だと思うからです。

 

永訣の朝

賢治の二歳年下の妹トシは二十四歳でなくなります。賢治の良き理解者でした。そして、他者への献身の姿勢を示した人でした。

トシは病床の中で、賢治に「あめゆじとてきてけんじゃ(雨雪をとってきてください)」と頼みます。

これを賢治は、妹が最後に自分に依頼することで悲しさを軽くしてくれたととらえます。

トシはみぞれを兄に取ってきてもらって食べ、添えられた松のはりではげしく頬を刺し、「ああいいい さっぱりした まるで林のながさきたよだ」と喜ぶのです。

そして賢治は「どうかこれが天上のアイスクリームになって、おまえとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」と決意しました。

妹との永訣はすべてのひとへの思いとなって広げられていくのです。

 

オツベルと象

悪辣な地主であるオツベルは気の良い白象をこき使い、物語の最後に象たちに踏み殺されるおはなしです。そして白象は「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ」とさびしく笑ってそう云ったのです。

 

人間社会ではオツベルのように他人の労働の成果を不当に搾り取るという仕組みが堂々とまかり通っています。

宮沢賢治は、そのありとあらゆる状況の中で、《本当のしあわせとは》を追求する道を私たちに示してくれるように思うのです。

 

 

 

 

風のベーコンサンドと我が家のベーコンサンド

風のベーコンサンド 柴田よしき

この小説には、すがすがしい風が吹いているように感じた。ところどころに出てくる草花の名前、百合丘高原の素晴らしい食材、そこに生きる人たちの思いや生きざま、それがからみあって、ドラマが展開していく。

 

奈穂の店「カフェSon de vent(ソン デュ ヴァン)」は

百合が原高原にある。バブル期に建てられたペンションを買い取って改装した店である。

離婚調停中の奈穂の人生、カフェ経営の奮闘そして百合が丘高原に住む人々の人間模様を描いた物語だ。

 

目次

 

 

 

一方百合丘高原には日本全国で展開しているリゾート開発会社のホテルが建つ予定がある。これまでの日本各地のリゾートホテルの例だと、ホテルのレストランはどれも東京の有名支店で各店とも仕入れは独自のルートを使うらしく、地元は素通りのことが多いというのだ。

ところが、、、

ある日、客として現れる60代前半、赤黒い顔で土汚れのついた作業服に長靴をはいた男がやってくる。

テレビを見たいという男に、店にはテレビを置いていないので奈穂は自分の携帯をさしだした。男はとても嬉しそうにその携帯のテレビ番組をみていた。

高原とテレビは相いれないものという考えがあるが、今度あの男性が来た時には大きな画面でテレビをみてもらいたいという思いから、テレビのある小部屋を設けることになる。

思いが通じたようにその男が再び訪れる。
その日のランチは
高原のチーズクリームシチュー、
ハーブサラダとベーコンサンドがついたもの。


そのベーコンサンドの説明をきくと、
レタスやトマトは入れないで、マヨネーズもいらない。
パンを焼いてフライパンから出したベーコンを脂をきらないでのっけて、
芥子をちょこっとのせたものをつくって欲しいという。
おまけに自分で作ろうか、とまで申し出てきた。
「ベーコン、あまりぐじょぐじょはだめだが、カリカリ過ぎてもだめだよ」という。

奈穂は注意深くベーコンを焼いて完成。
男は、何のリアクションもなくもくもく食べると、
一切れだけベーコンサンドを残して、ごちそうさん、と言ったのだ。
どうして?と残したのと冷や汗をかく奈穂に、
「あんたも、食べてみたら。これ」と言われ、
一切れ口に入れると「わ、おいしい」

 

このシーンがとても印象的だった。

 

ベーコンをおいしく焼くのは結構難しく、
私はガリガリになってしまうのだけれど、、、

 

このベーコンサンドが元となっていい方向に風が吹いていく。

 

<特選・ベーコンサンドの作り方>

フライパンでじっくりと、心持ち弱火でベーコンを焼き、
しみ出した油で赤身の部分を上げるように火を通すと、
残った脂肪の部分もさくっとした歯触りになる。
オーブントースターがチンとなって
ほどよく焼けたパンの上に
直接ベーコンを敷く。
芥子をほんの少し、さっとベーコンに広げる。
もう一枚パンをのせ、完成ー。

 

 

読み進めていくと、わかったのだが、実はこのベーコンサンドは思い出のもの、むかし離婚した妻との間にできた娘にせがまれて男がつくってあげたものだった。
その娘が好きだった本、みなしごになったひねくれた女の子が田舎に引き取られて、遠い昔に使われなくなった鍵のかかった庭に入り込んで…それに、田舎もんの貧乏な男の子が出てきて、その子が持っている弁当がこれだった。

そう、この小説は私が小学生の時に大好きだった本「秘密の花園」だった。私は、もちろんこのおいしそうなベーコンサンドにも惹かれ、すぐに食べたくなったほどだが、前回のブログでこの小説の名前を出したばかりだったので、驚き、いっきに親しみがわいてしまった。
そして、その男が初めてカフェに訪れたときに、嬉しそうに視ていたテレビ番組には、娘が出演していたのだった。

このさき、そしてこの男は何度も奈穂の店をおとずれ、地元のすばらしい食材を知ることになる。
新しく建つホテルは今までの方針を変えたらしく、百合丘高原の素晴らしい食材を活かしたレストラン経営をすることになった。地域の人たちとともに、新しい百合丘高原として生まれ変わろうとしている。

そんなおはなしです。

 

 

ところで、とっても美味しそうなベーコンサンドなのですが、これは上質のベーコンじゃないとできないので、今回私が紹介するのは
次のベーコンサンドです。

 

 

食パン2枚分

<材料>

・食パン8切り…2枚

クリームチーズポーション1個

・枝豆…15さやくらい

・ベーコン…2枚

 

<作り方>

食パンは両面焼く、
クリームチーズをぬり、
焼いたベーコン、
ゆでた枝豆(冷凍でも可)を挟んで

できあがり!

続・しあわせを感じる秘訣

チモン村の風景

めざすチモン村に到着。

雲一つない空は、吸い込まれそうなほど濃いコバルトブルーに染まっています。

桃色の花を咲かせたそば畑。立派に成長したトウモロコシ畑。草が生い茂るだけのただの原っぱ。その間を緩やかなカーブを描きながらのびる小径は、誰かと誰かの家を繋いでいる。土壁に木枠の窓をあてた趣のある家屋。家々は重なることなくゆったりと点在し、しろいけむりが煙突から立ち上っている家もあります。
まるで、過去にタイムスリップしたような気持ちになります。

 



チモン村の人びとのしあわせ

ツアー参加者と、村びとたちが中庭で焚火を囲んでの夕ご飯の後、村人への質問タイムがはじまりました。ツアー参加者全員がブータン人が感じている「幸せ」に興味がありました。

いままで一番幸せを感じたときはどんな時か、と質問してみると

ペマさん(ツアーの案内役)のお兄さんは「結婚したとき」
ペマさんのお父さんは、「釣り、そして狩りをした鹿や猪をみんなに分け与えているときが幸せでした。けれど、いまは年をとったので、来世の準備をしなくてはいけません。来世委は殺生をどれだけしたかによって決まります。狩りはやめて、僧院に通い、来世に行くためにするべきことをしています」
ペマさんのお母さんは「歌を歌っているとき。若い頃は口を閉じているときがないくらい、いつも歌っていたのよ」と微笑みました。「いまは、毎日マニ車を廻して、幸徳を積み、来世の準備をしています。死ぬ準備をしていることがいまのわたしのしあわせです」


質問をしているとき、ペマさんのお兄さんからこんな言葉を聞くことがありました。
「この村では、一世帯ですべてが完璧に満たされているところはありませんが、村のみんなで助け合いながら満たしでいるのです。何か足りないものがあれば、村のみんなで分け与える。村では除外されているひとはひとりもいません」


また、村のある女性は「ひとが集まって、みんなで過ごしているときがしあわせです」と本当にうれしそうな顔をして答えました。
わたしたちがいただいたおもてなしやごはん、目の前で燃やされている薪は、村びとたちがあるものを持ち寄ってま
かなってくれたものだそうです。

村びとの幸せはそれぞれだけれど、「人と人とが繋いできる輪」から生まれてくるものばかりでした。

 

目新しい特別なことではなくて、目の前にある日常的な時間の中で幸せをめいっぱい感じているようでした。

 

キリの良いところで質問タイムはおひらきとなり、泊めさせてもらう民家をめざして、懐中電灯の灯だけを頼りに歩き始めました。
ふと懐中電灯のスイッチを消してみると、チモン村の風景が暗闇からゆっくりと浮かびあがり、目指す家も、足元も、原っぱに生えている小さな草まで、はっきりと見えてきました。懐中電灯の灯を消したことで暗闇が蘇り暗闇があるからこそ見える輝きに気が付いたのです。
影を落としているのは夜空に浮かんだお月様、その月明かりは、私の体だけではなく、こころまで優しく照らしているように感じました。草の葉に輝く光に見とれながら、ゆっくりと民家へ繋がる小径を歩きました。

 

オーガニックコットン

滞在2日目、村を見学する日。オーガニックコットンの畑を見に行く。

オーガニックコットンとは農薬や化学肥料を使わずに育てたコットンのことです。

チモン村はもともと、自分たちで栽培したコットンで糸を紡ぎ、草木で色を染め手織りの布で自分たちの着る服をつくっていたそうです。ところが、近くに道路ができると、その伝統的農業は消えていきました。道路づくりにかりだされた村びとが現金収入を得て服をつくらず外から買うようになったからです。

チモン村には道路と電気がいっぺんにつながろうとしています。自給自足をしているチモン村では現金収入を得ることは難しく、お金を求めるものが町へ出て、過疎化がすすむようになります。それを懸念した、文化人類学者の辻信一さんの考えで復活したのがオーガニックコットンの栽培です。

過去に経験のあるコットン栽培なら村のおじいちゃんおばあちゃんの知恵と若者たちの力を合わせることができる。つまり、現金収入を得ながら、チモン村の文化とコミュニティーを維持することができるだろう、というわけです。

 

遺伝子組み換えコットン(GMコットン)の恐ろしさ

コットン畑を見学しているときに、衝撃的なお話をききました。インドでは遺伝子組み換えコットンを栽培する農家さんに自殺者が増えているということです。

遺伝子組み換えというのは、遺伝子そのものを捜査して、本来持たない新しい機能を生物の中に作り出す技術のことをいいます。作物でいえば果実を多く実らせたり、除草剤に耐えられるようにしたり、作物を殺虫効果のある性質にかえてしまうこともあるそうです。

遺伝子組み換えの作物をつくる最大の目的は、「手間ひまかけず収穫率をあげて利益を得る」ことです。広大な土地に種を蒔いた後、特殊な除草剤を散布しながら育てる。そのため、畑と畑周辺の生態系は、一気に狂う。はたけのまわりで暮らしている人びとにも、アトピーのようなアレルギー反応や癌などの健康の問題がふえているそうです。

遺伝子組み換えコットンは、コットン自体を殺虫効果のある性質に作り替えているため、手摘みで収穫する人の手の爪が奇形しはじめている、という話も聞かれます。

なぜ、遺伝子組み換えコットンが自殺の原因かというと、遺伝子組み換えのコットンの種は、通常のものより3倍ほど高値だが、作物自体に殺虫効果があるため、農薬の量が減り、その分のコスとダウンが見込まれていました。ところが実際は、パワーアップした害虫の出現で、農薬の量は増え、収穫率が減ったうえに繊維の質の低下により綿の単価が下がりました。出費が増え、収入が減った農家さんは種を購入したときの借金の返済がままならなくなり自ら命を絶つようになった、ということです。

チモン村での最後の夜

明日の早朝には、この村を発たなくてはならない。そう思うと、残り少ない滞在時間を楽しく過ごしたいところですが、村の現状と遺伝子組み換えコットンのことを伝えたいという思いがありました。
焚火を囲んで、引き続きそうした話を村びとにしていると、少し離れたところで太鼓の音が鳴り響き、お祭りのときに使う赤い鬼のお仮面をかぶった村びとが、マントを振り上げてこちらに向かってくるところでした。
太鼓の音に合わせて、踊り、お尻を突き出すふりをみていると、さっきまで真剣な表情で話し合っていた私たちは、みんな笑顔になり、鬼の動きに合わせて手を叩いたり、声を上げてはやしたてたり、そしてみんなで裸足になって踊りました。

こうやって、火を囲んで輪の中で踊っていると壁がスッと消えてこころの中に風が吹いたような気がしました。その風を感じると、こころの底から笑えて来ました。「ああ、わたしはなんて幸せなんだろう」そう思いました。

ブータンには、身分制度があります。チモン村の多くの人はお金のない暮らしをしている人が多いです。ですが、こうやって一緒に輪になって踊っていると、そんなことは、幸せの基準にはならない、身分の違いで不幸な人は生まれないことを村びとの笑顔は教えてくれました。

ブータンの人は他人を羨ましがることをしない」とペマさんは言っていました。
人と比べない。あるがままを受け入れながら、おおらかに生きる。そしてもうひとつ、自分が生まれてきた意味、自分の役割を感じて自分の存在を愛するー自分自身を愛すること、これが幸せを感じる秘訣ということに気づきました。

 

チモン村3日目、おわかれ

かわしまよう子さんは、見送りに来てくれた村びとたちと、ひとりひとりと手を握って別れを告げました。
念仏のようなものを唱え、無事を祈ってくれている村びともいました。出会った人にありったけの気持ちをそそぐ村びとたち。その思いの強さに圧倒されて、乗り込んだジープの中で、1時間ほど、子どものように泣いたそうです。

 

わたしが幸せを感じたとき

この本の記事を書くことは、自分の人生を振り返ることになりました。
植えた植物の種が芽を出したときの喜び、子どもといっしょに籠に草花を摘んで宝物のように感じたこと、つらいときに、自然に身を置いて元気を取り戻したこと、食後に家族と一緒にたわいもない話をしているとき、、秘密の花園の本を読んだとき、美しい音楽を聞いたとき、言葉をしゃべれない自閉症の子どもたちと心が通った瞬間、やっと授かった子を抱いたとき・・・

どれも、幸せを感じたときでした。

そして、この本をじっくり味わうこと

近代化の波がおしよせ、暮らしが変わろうとしているブータンですが、
ブータンのチモン村の自然と、村びとの目に見えない底なしの人間のあったかさが、私を幸せにみちびいてくれました。

 

チベット仏教ダライ・ラマ法王は、
仏教の目的を「幸せになることだ」と言い切られています。

自分が持っていないものに目を向けるのではなく、自分が持っているものの価値に気づくこと、これが仏教の出発点だそうです。

 

幸せとは何かというと、どれだけ人に与えられるか、人をしあわせにするために、どれだけのことができるか、ということではないでしょうか。結局はそれが自分のしあわせであり、人に与えれば与えるほど、自分が得ることになるのです。   -ペマさんの言葉よりー

 

 

このような長い記事を最後まで、読んでいただきありがとうございました。
でも、この本に書かれているチモン村のことを十分にお伝えできたとは感じておらず、もっと知りたい方、もっとチモン村の人々のあたたかさにふれたい方は、是非この本を手に取ってみてください。

 

しあわせを感じる秘訣

ブータン・チモン村への道のり

前回のブータンの記事は私が求めていたものとは違った方向にいってしまい、なにかものたりないものとなってしまいました。

あれから、この「ブータンが教えてくれたもの」を読んで、ああ、これだったんだ、しあわせなブータンの人たちの話を聞いて私も幸せを感じたい。そして、自分がしあわせを感じるのはどんなことかを知りたい、という思いがあったことに気づきました。

 

ブータンがおしえてくれたこと かわしまよう子 著

 

ブータンへ行く理由

著者のかわしまよう子さんは、現在沖縄に暮らしながら、雑草と呼ばれる草の魅力を伝える活動をしています。

幼い頃、草にこころ支えてもらったことから、ゴミの存在が気になり、ゴミの存在から,モノや生きものの命のことをおもうようになりました。

幼い頃,寂しい気持ちやつらく感じることを草に慰められることがあり、草が大好きになりました。そして、そのわきに捨てられたゴミが気になり,その行方がをしらべてみたました。すると、燃やしたごみの灰や、燃やせなかったものは砕けるだけ砕いて、海や山あいに埋められているという現実を知り、ショックをうけます。これじゃ、部屋のゴミ箱にゴミを捨てることと、道端に捨てることはそんなに変わらないじゃないか!と…
それから、なるべくゴミを少なくする暮らしをこころがけるようになりました。

モノはすべて、だいたいをたどると自然から生み出されたものでつくられている。つまり、すべてのモノは自然そのものなのだ、ということに気づくと、モノをゴミに変えたくないという気持ちがますます強くなりました。

しかし、日本で自然の立場を応援するようなことを言葉にすると変な人、という扱いをされてしまいます。だから、ブータンでの自然を思いやるエピソード「村に電気を通すために、生きものたちが棲む森の木をきらなくちゃいけないときに、『だったら、電気を通すのをやめよう』」を聞いた時、心底、ホッとしました。そして、いつの間にか慣れてしまった、人間優先の価値観から少し解放されたいと思いました。

また、震災後に原発で電気を賄うことのリスクを知っていても、暮らし方を方を変えるのは難しいことから、自分の草花の仕事の目的が分からなくなり、やる気を失っていました。そんな行方不明になった自分の心と電気の問題が浮き彫りになった私たちの暮らしかたに、いいヒントを教えてもらえるんじゃないかという思いからブータン行を決めたそうです。

2012年著者が訪れたのは、近代化の波が押し寄せつつあるブータン東部のチモン村、そこはまだ観光化されておらず、自給自足で暮らしているところです。政府の政策により、当時電気と道路がいっぺんに繋がろうとしていました。道路と電気は、そこに住む人々が何の変化を求めなくても、暮らしぶりを変えることになります。その恩恵をうまく利用して発展していくか、現金収入を求めるものが村を離れ、過疎化に向かうか、そんな局面にせまられていました。

 

ブータン・チモン村をめざして

このツアーの案内をしてくれたのは、チモン村を故郷とするぺマさん。
ブータンへは、那覇空港から福岡経由でバンコクに行きそこで一泊しインドのグワハティ空港に行ジープで国境を越え入国、そこから大型バスに乗り換えて北上する。
その道のりは、自然のままの雄大な風景を眺められるという思惑とは違いガタガタ道に揺られ、道路工事が繰り広げられている現場を目の当たりにするものでした。

国境からいくつもの谷や峠を越えて、途中ジープに乗り換え
日本から飛び立って3日目、ジープは停まり、チモン村へはここから歩いて向かわなければなりません。45リットルの大きなリュックを背負い、脱いだジャケットを抱え、首にはカメラをぶらさげて、、

降りた車の前方には、チモン村の近隣村人たち10人ほどが並んで待っていました。
その前には長いゴザが敷かれ、歓迎のおもてなしをうけました。邪気を払うと言われるヨモギが静かに燃やされている、その煙を見ながらバンチャンという酒、ゆで卵、みかんをいただきました。

そのおもてなしは、ほんのご挨拶ていどに終わり、斜面にのびる小径を村人の後につづいて一歩ずつ進んでいくと、村のお寺チモン・ラカンに到着。

境内の中に入ると、全員正装である民族衣装のゴに身を包んだ男性40人ほどが、ズラリと一列に並んでいました。ひとりひとり目を合わせながら「クズザンポーラ(こんにちは)」と挨拶をしていきました。
そして、おもてなし第2弾がはじまりました。
ブータン東部のお酒アラ、さっきよりたくさんのゆで卵、みかん、バナナ、落花生が振舞われ、一息つくひまもなくブータン料理がぎっしり詰まったお弁当箱がはこばれてきました。
その後、ペマさんの呼びかけで、チモン・ラカンを案内してもらいました。
お寺で手を合わせ,マニ車(経分を印刷した紙をおさめた回転体で、これを一回転させるとそのお経を一読したことになると言われているもの)を廻すと、再び出発の合図がありました。

 

マニ車

 

チモン村はさらに、斜面を下り、谷を下りきったところにあるといいます。谷の底はというと、、、首を伸ばして森に包まれていて何も見えません。
チモン村へつづく道は村人たちが長い間踏みしめてきたことを感じる硬い土の道でした。オオバコ、ヘビイチゴイヌタデの雑草をみつけました。
村人と一緒にチモン村へと歩きます。村の誰かが大声をあげると笑いが起こりました。言葉がわからないので、なんであんなに楽しそうに笑っているのかわからないのだけど、その笑いが伝染して、一列になって歩いているみんなが目を細めて笑っていました。
笑いは、どんな人種のどんな年齢のひとにも通じる、世界共通の言語。悲しみも不安も吹き飛ばし、平和な未来とまっすぐに繋がる力をもっています。

 

次回につづきます。
仮の題 チモン村の人々が「幸せを感じるとき」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブータン「しあわせの国」?

 

映画「ブータン 山の教室」より

 

職場の昼食の時間、ブータン旅行の話で盛り上がりました。

お話をしてくれた方によると2012年当時日本ではどの旅行会社もブータン旅行の企画は組んでなかったらしく、日本ではたった4人しかいなかったうちの一人のブータン人と知り合い、お誘いを受け行くことになったのだそうです。

ブータンといえば、2011年秋5代ブータン国王(龍王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク陛下が来日したとき、世界で一番幸せな国で、話題になりました。

2013年、国民が皆一様に「雨風をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだ」と答える姿が報じらました。

その時、なんてつつましい人々なんだろう。幸せだと感じることができる国とはどんな国なんどろうと興味を惹かれましたが、今回はその理由を調べてみようと思いました。

 

 

森とほほ笑みの国ブータン 大谷映芳、著より

 

ブータンはインドと中国との間にあり、ヒマラヤ山脈の南部に広がっています。

国土 38,394平方キロメートル(九州とほぼ同じ)

人口 70万人(島根県・東京練馬区とほぼ同じ)

と小さな国、そして人口密度が非常に小さい。

ブータンに行くには直行便がなく

バンコクシンガポール経由で4~6時間

「公定料金」といわれ全ての代金が旅行の日数で決まっており、公認ガイドが同行する。

 

ブータンは幸せの国?

そもそもなぜ幸せの国といわれているのか。

 

ブータンでは

国民総幸福量(Gross National happiness 略してGNH)」を採用

行き急いだ経済成長を見直し伝統的な社会文化・環境などを配慮しながら「国民の幸せ」の実現を目指す、という考え。

GNH Comissonという政府機関がGNHの考えに基づいて政策の舵取りをしています。

ジグミ・シンザ・ワンチェク第4代ブータン国王陛下は
国造りは国民の幸福を基本とする、開発と環境保全のバランスがとれた豊かな心を大切にする経済成長が重要であるとの考えを示しました。

そして4つの指針をかかげています。

・持続可能で公正な社会経済の開発

・文化の保護と振興

・環境の保護

・良い統治

 

こういったことから、「幸せの国」というイメージが定着したようです。私もなんてすばらしい国、ユートピアと思ってしまいました。

しかし、一方では、そんな国があるのだろうか?という懐疑的な気持ちも湧いてきて…

ブータンに関するほとんどの本や記事は今から10年以上も前の物が多く、旅行会社のPRの記事は、当然「幸せの国」をうたい文句にしています。

 

森とほほ笑みの国ブータン 大谷映芳・著より

 

国別幸福度ランキングを調べてみると、

南アジアにあるブータンは、発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり、“世界一幸せな国”として広く知られるようになりました。
しかし、ブータンは2019年度版で156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場していません。

このように、幸福度が下がった理由にとしては、

SNSやインターネットによる情報流入により、他国と比較できるようになった

・1993年当時は、地方では、ほとんどが自給自足の生活をしていて、お金はかからなかった。しかし、近年は公共サービス料金の値上がり、インターネット代金ん、保育園代金、各種保険の代金など多くのお金がかかるようになった。

所得は上がっているが、物価の上昇においつかず、生活向上に結び付かない。

・地方住民の都市部への移動による家賃の値上がり

・過疎化する農村の問題

等があげられています。

 

ブータンにおける開発と環境保全

ブータンでは地域住民と都市住民との所得や生活格差を是正するには観光開発をしなければなりません。

ブータンの自然保護地域には多くの住民が昔ながらの生活を営んでいる地域がありますが、ブータンを含むヒマラヤ地域は、世界で最も激しく土壌侵食・破壊が進みつつあり生態が極めて脆い地域であり、一度木を切り出し、その生態系を破壊すると土壌が流失し、その生態系の回復は非常に難しくなります。

よって、ブータンはその自然を保持するには保護(自然をそのままにしておくこと)する地域と保全する(生態系の継続と人間による生態系の利用)地域を厳重に管理する必要があります。

ブータンでは国策のGNHをめざすためにも、持続可能な観光開発のように、地方で雇用を生み環境保全も同時に達成するような仕組みが今後求められます。

 

国家政策とはただの理想ではなく、切実な問題から成るものなのでした。

ちょっとした興味から、調べ始めたブータンでしたが、ブータンの国策は今や世界の常識となっている「人間の活動が自然に与える影響をできるだけ小さく抑え、現在の自然生態系を保護することは人間の義務である」という考えと一致するものでした。

 

ブータンチベット仏教を国教としている国

仏教理念では「自然は畏怖の対象」です。

ブータン人は自然は、とてもデリケートな存在であることを深く認識しており、自然に対する共生関係の不履行やバランスを崩した管理は、自分たちの社会にとって不利益であることを言い伝えや伝承によって深く心に刻んでいる人々です。

 

幸せとは何か

映画「ブータン山の教室」はドルジ監督によるブータンのドラマ映画です。

教師として山奥の小さな村に赴任した青年の奮闘や地元民たちとの交流を描写しています。

「失われつつあるブータン固有の価値」を通じて、幸せとは何かを問いています。

「光のありがたさを知るには影を理解しなければならない:というドルジ監督。谷崎潤一郎「陰翳礼讃(In Praise of Shadows)」に影響を受けたそうです。

「違うところに身を置いて気づく『幸せ』の本当の意味。どこにいても幸せはみつけられます。足ることを知ることも我々の幸せなのです。」と監督は言っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母の好物

 経済的でおいしい母の好物

 

 幼稚園の昼食、私はお弁当が嫌いでした。

毎日悩みの種でした。今では考えられませんが、お弁当を食べ終わらないと遊ばせてもらえませんでした。早く食べ終わって外に駆けだしていくお友達が羨ましくて……

 しかしその悩みの種は役に立ったこともありました。怖い話を聞いた日や嫌なことがあった日、布団に入っても思い出し眠れない時は、お弁当のことを頭に思い浮かべると不思議と寝付くことができたのです。


  なんでそんなに嫌いだったのかよくわかりません。

ただ幼稚園のお弁当で覚えていることがひとつだけあります。それは母が作ってくれたサンドイッチです。母は今でいう創作料理をする人で、その日のサンドイッチはチョコレートをぬり、魚肉ソーセージをはさんだものでした。単体では私の好物ですがそれを合わせるのはちょっと……ほんと、食べるのに苦労した記憶があります。


 私は肉が嫌いだったので、カレーは肉の代わりにソーセージかツナが入っていました。想像するとおいしそうとは感じ難いでしょうが

でも、これはどうでしょう。「ツナおにぎり」これは今でこそ「おにぎり」の定番ですが、50年くらい前、コンビニでも販売されていませんでした。炊き立ての白いご飯にツナを入れ醬油を少したらして混ぜる、どうですか?「和風ツナおにぎり」とほぼ同じだとおもいませんか?こんなヒットな作品もあったんです。

 ちょっと風変わりな料理人の母ですが、実はなかなか味にはうるさいのです。母は山形県出身で、野菜が大好き。漬物は欠かさず漬けていました。青菜、白菜は干してからつける。胡瓜の古漬けは面倒で、何回も漬けなおしをし、ぱりぱり食感を出すために取り出して熱湯をかける等、てまひまをかけていました。素材の味を生かした料理が好きだったのかもしれません。

 

今日はそんな母が好きだった料理の一部をご紹介します。
料理とは呼べないほど簡単なものですが、経済的で美味しいので是非ためしてみてください。

 

大根の茎の炒め物

 

 

<材料>

・大根の茎……画像の部分
・サラダ油……少々
・塩……少々

少量にしかなりません。
スーパーで袋に入った「大根の葉」で作るより
おいしい!

納豆に混ぜても美味!

<作り方>

・3mmくらいに大根の茎を刻む
・フライパンに油を敷いて刻んだ茎を炒める
・塩を投入、混ぜる
 以上

 

煮干しの天ぷら

 

わかめの天ぷら

 

ネギ坊主の天ぷら

これは、初めての試み、昨年秋に万能ねぎをプランターに植えっぱなにしたら、花が咲いたので天ぷらにしてみました。みずみずしくて、爽やか、体が喜んでいる感覚がありました。

 

 

焼きおにぎり

ごはんが残ると、よく焼きおにぎりを作ってくれました。

自分でやってみると、なかなかめんどう。母は網で焼いていたので、焦げのつき方が私のものとはちがいます。味も母の方がおいしかったです。

 

<作り方>

・ぎゅっと固くおにぎりを握る。

・フライパンに、くっつかないホイルを敷き、焼く。

・表面が固くなったら、皿に出した醤油にころがす。

・再び、フライパンで焼く。

 

娘が、先日作ってくれたのは、白ごまが入り、香ばしくて、美味しかったです。

全部混ぜてから握り、焼いたそうです。

そういうやり方もあります。

 

~母の命日に寄せて~